昭和46年11月25日 朝の御理解



 私は今日は、この神誡と云う文字から、まあ感じさして頂くのですけれども。勿論是はキリスト教徒で言う十戒とかね。又は仏教で言う五戒。所謂仏教信者は、こんなこう言う事ではいけないぞとか、キスト教の信心をするなら、こうあらなければいけないぞと云う様な事が、まあ五ケ条なら五ケ条、十ヶ条なら十ヶ条あるわけで御座いましょうね。それで教祖の御教えを頂いて、この「御神誡」と云う頂いてから。
 その特徴と云うかまあその、私どもが本気でそうならせて頂こうと言う事になれば、誰でもできると云う程しの所謂見易い、成る程人間に対する所の注意書きと言った様なものを感じますね。例えば折角のお酒があるのに、お酒は飲んではいけないと。例えばキリスト教あたりでは申しておりますよね。仏教のとでもやっぱりそうですよね、生臭気をとっちゃいけないと、と言った様な。
 まあそれはその、自然に即応しないと云うかね、又は無理とかそう言う事が、こうまあそれは本当に、その御教えの真髄に触れて行く為には、そう云う修行も又しなければならんのかも知れませんけれども。教祖様の、この金光教の教典の中から頂く「御神誡」と、神誡と云う物は、ね。もうどの一ヶ条でも一つも難しい事がない、当然の事当たり前の事。しかも私共が、そうあらせて頂こうと思うたら、そうならせて頂けれる事柄ばっかりで御座いますよね。まあ所謂「真の道の心得」ですよね、御神誡。
 御神誡のこのどの一ヶ条でも、それはちょっと難しいとか不自然とかと言う所が一つも無い様ですね。『神国の人に生まれて神と皇上との大恩を知らぬこと』『天の恩を知りて地の恩を知らぬこと』『幼少と時を忘れて親に不孝のこと』『真の道におりながら真の道をふまぬこと』『口に真を語りつつ心に真のなきこと』『わが身の苦難を知りながら人の身の苦難を知らぬこと』と云う様にその、成る程信心さして頂くならばこう言う所を、段々身に付けて行かなければならんな、と思う事ばっかりで御座いましょうが。
 そこん所にあの一つの特異性と言うかね、特徴があると思いますね。で私そう言う意味ではなくて教祖様がご自身がです、ここの所を身に付けて、まあお人柄から言うてもです、まあ確かに、こう云うお方であったであろうと、ね。どの一ヶ条から云うても、是を本当に身を持って行じておられたと云う様な感じが深くさせられますですね。そん所をしかも実意丁寧に行じ抜いておられて、そしてそれを教えておられ、信心する者は、こう言う所に心得て、「真の道の心得」とありゃ。
 真の道を行く人は、此処ん所を心得とかなければいけないぞ、と言う風にまあ教えておられます。その中でです今日は私その神誡と言う、兎に角此処ん所を頂いたんで、ですから今日は、此のだから神と云う字をね、まあ此処で申しますなら、神と言う字はまあ言うならば、「寝ながら申す」とこう私は感じましたですね。自分が動かんなり、来るだけで、人を使おうとすると言うのは、能面と頂いたんです。自分は出来ない事を人に強要すると言った様な事です。
 だから、相手から「お前はどうか」と言われたら、もうそれっきりなんです。ね。金でも何でも無駄遣いするなと。言うて子供に言いながら、自分が無駄遣いしとったら聞きはしませんよね。自分が親不孝しとって、親に孝行しろなんていったって、子供は聞きはしませんよね。ね。私、今日の神誡と言う事からですね、どんなに御理解聞いていいか分からん。もう教えが無いから、此処ですから。そして、教祖様は、私今申しました様に、例えば、御神誡だけから頂きましてもです、ね。
 教祖の神様が、ご自身が身を持ってそれを成し遂げられた。しかもそれは、信心する者は、こう言う心掛けにあらなければいけないぞと、教えられてるその事がです、不自然さが無い。ね。言うならば、成る程人間がさせて頂く信心だと言う事になる。成る程教祖の神様ご自身が、手の股から生まれなさったお方でもなからなければ、ね。雲の上の方でもなかったと言う事。
 皆んなと一つも変わらない、言うなら、一農民としてお生まれになられて、ね。百姓の道、いわゆる百姓道と云う物をひたすらそれを行じ抜かれた方。ね。人間関係の上においてもしかり。お仕事の上においてもしかり。で皆さんが、ね、金光大神をお読みになると、その通り、お分かりに成る訳でありますね。上納ひとつ納められるでも、ね。普通で言うなら、例えば一俵なら一俵上納すれば良いのに、「今年は良うできた」と言うては、それに例えば少しでも余分に納めておられると云う様な事実ですね。
 人間関係においてもそうです。段々信心が高じられると言うか、信心がお進みになられて、神様から色々お伝えを頂かれる様になってからの、教祖金光大神のあり方ってものは、もう愈々、まあ素晴らしいものであったと。神様の意を体して、ね、御神意のまにまに、ね。日常生活をそのまま、所謂ご信心でおありになられた。それを例えば私どもに、教えとって下さる。金光大神がまさしく天地金乃神様から受けれたおかげを話にして残しておいて下さったと言う事であります。
 其処で是は、まあ私自身の事を思うのですけれども、私が本当に歯痒いなぁとこう思うたり、せっかくおかげを受けたい受けたいと言いながらです、惜しいなぁとこう思うたりする様な事がです、なら私の信者時代と申しましょうかね。まあ信者時代と申しましても、なら、何十年前のではなくて、いわゆる二十年前、終戦こっち、ね。私が「ほんとの信心が分かりたい」と、本気に願わして頂いて、私が拾わさせて頂いた信心なんです。その信心と言うものが、此処ではどうしても基本になっとるです。
 標準になるんです。だから、私はそう言う時にああした、私はこう思った、こうしたと言う事を皆さんに聞いてもらってる訳です。ですから、それからちょっと漏れるとね、おしいなぁと思うのですよ。そして、それは、たいへん難しいと言う事ではなくて、一つも難しい事は無い事を、だったからなんです。私に取っては。ね。例えば御本部参拝なら御本部参拝と、ね。お月参りをさせて頂くと決めたら、もう本当にどの様な事があっても、言うならそれを頂き抜いたと言う事。ね。
 例えば皆さんの場合、はあ、親先生がおいでられになる所に、本当にやらせて頂くとか、御本部参拝される時には必ずお供をするとかと云うお取次ぎを頂いておられる方達がです、何かの事情が出来ると、ね、事情の方に引かれて、それを曲げてしまわれるんです。「ただ今修行中」と云う時に、そう言う事が出来るだろうかと。例えば今日は、上野先生がおりませんから、まあ申すわけじゃありませんけれど。
 昨日、北野の共励会。「親先生、二、三日ゆっくりして来ていいでしょうか」と、北野が里ですから。「はあ、よかとこじゃなかばい」って、まあ申しましたけれど。あれ程の根性を持った人ですよね、皆さんもご承知のとおりの人がです、時々里帰りして、ね、それはある意味、事が成就してからの暁ならまだええです。「ただ今修行中」と云う人がです、しかもんならです、ね、是が他の上野先生以下の人ですよ、言うならば。此処で。を私は、そうは思いませんけれど。
 あの位根性がしっかりして、信心もしっかりしておる人がです、時々はその里帰りしてゆっくりせにゃ、もうこう言う事なんかも、私に言わせると、もう惜しゅうして惜しゅうしてたまらんとですよ。だけでなく残念で残念でたまらんです。何故って本当に良い取次者、また本当に近い将来には、布教にでも出らなきゃならない、その信心のある人達がですね、そう是を普通から云うたらですね、私の言うとる方が無理なんですよ、言うたら。ね。近くにお里があるけん。
 はあ月にいっぺん二編ぐらいは、帰ってまあ楽をしなさる。それが当たり前。けれども、私の生き方から行くとですね、もし私ならばと、ね。なら御本部で修行しとる人達でもそう。なら此処で修行しとる人達でもそう。んなら、それは自分の子供達の上においてですら同じ事。信者さんの上においても尚更の事。私が行じて来た、ね。それは難しい事ではなかった。神様へ一途のものを向けたら、こうあるのが当たり前。
 その当たり前の事を、しかもほんとにおかげを受けたいと言うておる者が、それがでけんということは残念だと。だから、私の場合は、寝ながら言うとるのじゃない。私自身が行じてから、言いよるとったってっちゃ、今日の神誡から云うとそうなるです。ね。此処では、やっぱそう云うだから、その、一つの流儀と言った様ものが、やっぱりあります。ね。例えば久富先生なんかが、北野の共励会に例えば行かれる。
 もう自分の家の前を行ったり来たりなさってかられてですから、もう二時か、もう11時、もう11時過ぎにでる事がありますから、こちらへ帰ってくる人に、「親先生どうぞよろしゅう」で普通で言うならば十分なんです。所が合楽では許されんって云うのが私の生き方なんです。例え自分方の前を通る様であっても、一遍は合楽に帰って来い。そして、お取次ぎを済まさして頂いてから帰られるんでね。
 是はもう何十年間、久富先生が続けておられる事なんですけれどもです、言わばそう云う様な事でもです、是はちょっと、無理なごたる、馬鹿らしいごたる、無駄なごたる。けれども、そうさせて頂かなければおられないかったのは、私の信心なんです。ね。私は此処で、神様から色々とお知らせを頂いたり、ね。言わば、御理解を皆さんに、こうやって聞いて頂いたり、その中に必ず私の信心が出てくるわけなんですけれども。私で出来なかった事は、皆さんには、私、申しとらんと思います。
 今朝の御祈念に、この頃から、西脇殿のご造営について、八社の方達が、申し込んでおられました。それで極あのいろなんとかね。それで請けあわれる金額が全部集まって参りました。自分方は幾らでする、自分方は幾らでする、と云う様な方法なんです。高いのは五千万からでしょうか。一番安いのは二千万代と云うのがあります。大変な違いですよね。入札されておられる。二千何百万でしたかね。所ろが御神意を頂かしてもらうと、丁度真ん中ごろ、三千百万ですか。
 それで付帯工事を入れて四千万。と云う様な。設計をなさっておる古谷さん、その古谷さんを中心にと云う御神意を頂いとった。だから古谷さんが此の位の所と云う物は、大体してあった、それに一番近い物でしたから、三千百万って云うのがあった。その一番安いのが、日田の梶原工務店と云う、此処へ参って見える、時々参って見えます。 若先生の部屋もして頂いた大工さんもしておられた。信心もあるし、まあ出来るだけ勉強してと云うので、二千何百万。
 しかも此処へそれを持って見えた時に、又、その中からもう百万円引かせて頂こう、と云う様にまあ、もうそれこそ、そげな事出来るじゃろうか、とてもできまいと思う位に、安い値段で入札してあった。ところが実際開けて見た所が、三千百万のに頼むと言う事になった。しかもそれは、私の方としては全然関わり、関係がない訳ですね、「三和」と云う業者なんです。断るならば、一番断り良い業者なんです。
 例えば断り難い、その八社の方、いろんな関わり合いがあって、「自分も申し込ましてくれ」「自分も申し込ましてくれ」と言われてある。またはそう云う人の推薦を得てから申し込んであるね。「もうほんとこの人んとは断られん」と思われるようなのも幾らもある。その中に、一番「三和」と云うのは、関係のない訳なんです。此処にはだから断るなら、一番断り良いのが「三和」だった。
 所が、その「三和」に神様は頼む、とこう言いなさる。それが、古谷さんの云うておられるとに一番近かった。ね。ちょうど、そういう会議のあった時に、委員の方達が開かれて、委員長のまさきさんが、どこがいくら幾ら幾らに出とります、と云う書付を此処へ持って来た、朝の御祈念の後に。それで、決めるならまあ一目見といて頂いた方がよかとこう云う訳なんでしょう。けれども私は、「まさきさん、それちょっと私に見せなさんな。私が見といてから。
 ははあ何処何処が幾らばいの、ちゅうてから何処がよかばいと言うたら、私が人間心使うたごとある。だからそれは見らんがええ、後から御神意を頂いてただ金額なんかを言わずに御神意を頂いて」と言う事であった。それから改めて御神意を頂かれた。そしたら「この度は古谷設計士を中心に」と言う事であった。だから三和が決定した。ね。私共どうしてなのか分からなかった。しかも私値段が幾らか分かっとらんから、それをそれがえらい高くなるならどうしようか、と例えばこうその後に思うた。ね。
 そしたらあの神様から私お知らせ頂くのがね。あの三味線の竿の一番下のカンの所、ツボたいね一番高い音の出る所を、とこをピシャッと押さえるとこを頂いた。例えばね、値が高いっちゅう訳なんです。値が高うても三和と云う訳なんです。だからもうそれで愈々、まあ決定的なものになった訳です。そして開けて見た所が、高くもなければ安くもないと云う言うならその三千百万と、もうそれにもうもっと近い、あのそれにもうほんな十何万ぐらいにしか違わんともあった。ね。
 そこの色々様々で御座いましたけれども、結局、三和が一番それに近いと言う事になって、たとえ、もし値段が高かっても、此のただ三和に頼んだと言う事になった訳です。さあ、それを発表しましたから、他の業者は、誰も一言も言うて来る事はないけれども、その人の、梶原さんだけは、まあ言うならば、そのまあ言うならねじ込みに、ね。「どう云う訳で自分方が、一番安かとに、俺んとこ頼まないか」と云う訳。
 それが分からない。「もうこげな事なら信心は止める」と云うて、朝の時丁度、朝の御祈念の後でしたから、そら信心が止められても、まあ人情から言やね、もうとっても忠実な方なんです、この梶原さんて云う方は。もうこの前の普請に、私ども皆が惚れ込んだぐらいな大工さんなんです。実意丁寧ですし、そして実に真面目ですし。ね。そして自分もあらゆる、皆もその業者に「もう今度は神様のじゃから、もう出来るだけ安してくれ、出来るだけ安してくれ」と云うて集めてそして。
 この値段が出てしかもそれからまた百万円も引いてから、その一番安い二千何百万と言う事になったんです。だから自分としてはもうどうでも、安うして取ろうと云う気になった訳なんです。所が此処は始めから安いけん頼むと言う事じゃなかった訳なんですね。だから人情から言うても、日田の綾部さんの推薦でおあるしです、一番値段も安いししかも大工さんはこの頃頼んでからどう云う人物かと言う事も分かって。そこで働かれる例えばあの左官の下々に到る迄が、本当に良か人達ばっかりじゃったですもん。
 だからもうこげな人にずっと頼むなら、近くもあるし良かって言いもすりゃ思いもしておったんです。けれども実際御神意を頂いた所がそうではなかった訳ですね。その前日、秋永先生とまさき先生とそれから茂さん達と一緒か。そのままあのそれに古谷さんを通してから、会わせて頂いてからもうびっくりして帰って来た事ばっかりになってあった。はあ本当に神様が三和でなかにゃいかん。たとえ値が高かったっちゃ三和と仰ったが、もう三和と言いなさるはずと云う様な条件が全部揃とったんです。
 もう是には今でも皆が驚いとります。こんな業者があるじゃろうかちゅうぐらいですね。そして是ならいかに他の七社の人達が、追辞を許すまいと言う。この人の場合なんかは、百万円まけてくれたっちゃもう、この仕事を返上します、とそん代わり言うたね。そして、どう言う事になったかと云うとですね。梶原さんの場合はね、所謂人情で此処の仕事を取ろうとした。所が三和はですね、神情で、ね、神様の情での仕事を頂きたいと願った。ただ、人情と神情の相違なんです。
 だからほなこちらも人情で出すならば、もう梶原さんに頼まにゃ馬鹿らしかですよね。五百万から違うんですもん。しかもその人の人物よう分かってるんだもん。どんなに真面目な人か、仕事が上手なのか、分かってるとでしょう。ね。しかも近くではあるし、信者さんではあるししかもその推薦者は、支部長の綾部さんじゃあるとにですから、もう条件そう云う意味なら、人情から言うなら条件が揃うとるから、ね。「これはいっちょどうでんこうでん梶原さんに頼もう」と言いたい所なんですね。
 所が神様はそうではない、一面識もない言うならば、そして繋がりもない、断るなら断りゃよい三和に頼まれた。そしてんならそのこの人みんな頼まんなんごとなるならば、一遍その方達と会うとこうと云うので、先生方が面接してから色々話を聞いて、もうそれこそ惚れ込んで帰って来た訳ですね。しかもその言われる事がです、もう本当にそれこそいわゆる、神情をもってこの神様の御用だけはさせて頂くと云う、その向こうのその腹をですね、聞いてきてもう本当に、例えば高かったっちゃ成る程。
 この人に神様は頼むと言いなさった筈だ、と云う様な素晴らしい条件が揃ておるので、それこそ私どもも聞いて驚いた。または会うて話をその後に聞いて本当に成る程そうであろうと思う様な、言わば業者の方でありました。ね。私その事があるしまたほなら梶原さんも、やはり何回か出会ったけれども、お参りをして来てしかもこの前のああした、ね、安かばかりの仕事じゃあるけどもして頂いたりしておりますから、折角の信心が又その為にもう止めてしまうと云う、自分はそう言う風に言うおられますから。
 けれども、もうそれは止められても仕方ないけれども、せっかくの縁を縁として、おかげ頂かにゃいかんと思うて、その事を今日の御祈念中パッと心に感じましたから、お願いさしてもらいましたらね、頂きました事がね。その梶原さんがお芝居なら、カツラ女の扮装をしておられる所。そして動きだけはその男の格好をしよんなさる。するとこちらは三和であろうと思う人が、やっぱり男だけれどもその、所謂その女形の所作をもってですね、もう何ともかんとも言えん様な、言わば、まあその女の所作ですね。
 所謂もう色気たっぷりの所作で、その女形芸を演じておられる所を頂いた。ね。梶原さんは兎に角、安さえありさえすれば取れる、こう思とった。人情なんです是は。ね。しかも自分の仕事とか、人柄と云う物は参って、こちらにも分かってもらってのであるから、その中でも、自分が勉強して安心さえしておきさえすれば、取れるもんだと思うておった。いわゆる言うならばです、ね、「もう女だから女らしゅうせんでも、私は女」と云う訳なんです。すると片一方はそうじゃない。ね。
 男が女になっとる、勿論なっておるのですから、もうそれこそ女の言うならば、特徴とでも申しましょうか、ね。それこそ女以上の女に精進し努めておられると言う事です。ね。これは言わば「神情」です。例えば是はお芝居を見てそのまあ思いますのはね、女の方がずっと自分が女と思とるから、女の女のらしさと言った様な物を本当に出し切らん。所が男の人がするとです、自分は男であるからそれで女らしさを観客に見せなければならないから、あらゆるその演技の、所謂そのまあ秘術を尽くしてですかね。
 所謂いよいよ女らしい、それこそこぼれるような色気を舞台一面にその、撒き散らす事が出来る様な物ではないかと云う訳です。ね。梶原さんは、ね。人情で言うなら私どもの心を捉えようとした。ね。所が三和さんはね、もう神様の御用であるから、神様にほんとうに喜んで頂く御用をさせて頂くと。もう絶対是だけはあの、神様に喜んで頂く様な御用さして頂くと言う事、この頃から何回も言っておられましたが、ね。
 もう人から喜んでもらえるのじゃない、「神様に喜んで頂く」と云う生き方に、合楽の場合は絞っておられたと言う事。成る程神様が、ね、神情の方を取られたはずである。何ぼ値段が高かっても、三和に決まったはずだと。そして話を聞けばきくほどに、成る程と、まるでこの、もう是は絶対此処でなかなできん、と言った様な事がその次にまた問題があるんです。成る程、これは三和でなかにゃ出来る事じゃなかったなぁと云う事が、になって来ておるんですよ。ね。此の様な場合にどうでしょう。ね。
 今日の御理解から言うと、ちょっと、余談が長うなりましたですけれどね。私がね、日頃人情持つ、ね、人情を使っておったら、絶対梶原さんになるでしょうね。けれども私は、是は誰が何と言うたってです、ね。御神意は動かす事が出来ない。まあそれが合楽の神情でもありゃ値打ちでもある。高いとか安いじゃない。神様が「こう」と言うて下さるから「こう」と決めるんだと云う生き方なんです。
 例えばこう云う生き方なんかはです、私ども、私自身がね、是はもう此処二十何年間、是を頂き抜いて来た事なんです。ね。その事を、なら、皆さんに聞いて頂いておるわけなんですよ。ね。神様は人情では動きなさらん。ね。神様は神情をもってしなければ動いて下さらない事を、私は確信しておるからです、ね。其処に私は人情を使わない。だから、人情ではいけんよと、皆さんになら、言うならば、私が身を持って行じて、そしておかげを頂いて、ね。
 神様の言われる事には、一言半句でもそれを右左にする様な事は、私自身致しませんから、皆さんにもそれを、まあ申し上げる訳であります。ね。此処では人情ではいかん。何処までも神情一筋で行く訳です。教祖の神様と云う方は、ね、金光大神と云う方は、自分自身が出来て、出来ない事を私どもに教導なさっておられないと言う事。ね。ただ良かこつを考え出して、その真をです、皆にみせておられるのじゃなく、自分が身を持って体験しておられる事。
 そして自分が「為せば成る」と言った様な厳しさ、厳しい事ではなくて、そう為すのがもう当たり前と言う事をで、もう淡々として、ご自身がなさっておられる事を、なら御神誡の上にも此の様に現われておると言う事。所謂これは、御神誡だけではありません。教、この教典の全てがです、ね。そりゃとても難しか、そげな不自然な、人間がそんな事できんと言った様な事は一言もないと言う事。私共がその事を忠実に頂こうと思うたら、誰でも出来れることを教えておられると言う事。
 所が私共の場合、自分は出来もせん、自分はしもきらんのに、ね。それを例えば信者に強要したり、または、子供にそれを言うて聞かせたりした所でです、子供が聞くはずはない、信者は聞くはずはない。ね。厳密に申しますと、私どもの言うておる事も、みんな粗い事で御座いましょうけれどもです、ね。私自身も行じます。私自身もそう致しますから、皆さんもそうして下さい、と言うな程度なら、言えれると思います。
 私がしません事を、私が行じきらん事を皆さんに「こうしなければおかげ頂きませんよ」とは言わん。また、過去の私の信心からから言うてです、私はそれを行じて来たと。ね。それをなら皆さんが右になりなさる。言わば行じなさらん。ね。中途半端になるそう云う時に、私は本当に残念に思い歯痒い思いをすると思う。ね。寝ながら指図した所でです聞くはずはない、と今日はこの御神誡の中からね、そう云う様なものを感じさして頂いた。ね。それこそ自分の身をつねって自分の身の、ね。
 痛さを知ってから人をつねれと言う事なんです。ね。自分の身はつねらんのに、人の身ばっかりつねろうとする、それでおかげになるはずはないと言う事ですよ。ね。同時になら私がちょっぴりその申しましたね。「残念だなぁ」と。この人ばっかりは良か取次者に、一つ育てさして頂かにゃならんと云う人がです、なら時々はスパッとこうおかげを、私の思いの反対の事ばスパッとこう平気でやろうとしたりすると、残念と思うけれどもそれを、「そんな事でどうするね」とは言いませんからね。
 例えば上野先生の例をとりますとです。そげんまでせんじゃせんでん。例えば文雄先生の例をとるならば、ふつつかなと言うのが当たり前ですけれども、私に言わせるならば、それが当たり前と云う生き方なんです。ね。それを、例えば私がですね、此処では人情では動かん、神情でなかな動かないと云う事実をね、是は私の実際私が行じておる事なんですから、それを三和さんと梶原さんの例をもってね。
 聞いて頂いたわけです。私共のいろんな、特にあの親子関係の場合なんかはそうですね。子供に是が分かって貰たいと思うなら、自分自身がまず分からにゃ。是を子供にこう行じて貰たいと思うなら、自分自身がまず手本を示さなければ。ね。神様にいや子供に言う事を聞いてもらいたいならば、ね。親神様の言う事を親がまず聞かにゃいけん。ね。そしたら子供は、言わんでも言う事を聞くと言われております。
 確かにそうです。ね。子供んとこは、自分、ね。の真にです、「ああせにゃいかんこうせにゃいかん」と云うなら、自分がああしてこうしてが出来てから、私は、言わなければ、それは効果はないと思うです。神誡それを今日は、「寝ながら申すことを戒める」と云う意味で聞いて頂きました。自分はせんといて人だけを使おうとする事を慎め、それを戒める。今日はそう云う意味で聞いて頂いたんですけれども。
 教祖の神様と云う方は、ね。ご自身がなさらなかった、ご自身ができなさらなかった事を、私共に「ああしろこうしろ」とは仰っておられない。しかも、自然に合うた、ね、人間らしい信心。または、修行を私どもに、言わば要求しておられる。それは神様が、ね。おかげを受けてくれと仰る、そう言うおかげを取次いで下さろうとする願いが、こう言う御教えになって来ておるんだ、と言う風に思いますですね。
   どうぞ。